(12)岩山「啄木夫婦歌碑」
盛岡市岩山頂上に昭和57年(1982)、啄木の没後70年を記念して啄木の銅像と、啄木と妻節子の夫婦歌碑が建てられました。
啄木夫婦歌碑
汽車の窓
はるかに北の故郷の
山見えくれば襟を正すも
石川啄木
光り淡く
こほろぎ啼きし夕より
秋の入り来とこの胸抱きぬ
石川節子
二首とも啄木の直筆から集字している。
「汽車の窓・・・」は啄木の歌ノート(明治43年8月28日)にある歌で、文芸雑誌「スバル」(明治43年11月号)で発表され、一握の砂「煙二」に掲載されている。
歌集「一握の砂」は明治43年12月に刊行されましたので今年で100年になります。啄木は一握の砂について吉野章三宛の手紙(明治43年10月22日)に次のように書いています。「一握の砂」と題して来月上旬東雲堂より発刊致すべく、一首を三行に書くといふ小生一流のやり方にて(現在の歌の調子を破るため)歌数543首(三分の二は今年に入りての作)頁数は286頁にても『あこがれ』と同じになり候も一奇と申さば申すべきか。中に収めたる「わすれがたき人々」百数十首は皆北海曾遊回顧の歌。目次は次のご如し「我を愛する歌」「煙一及び二」(これは故郷と少年時代の回顧)「秋風の心よさに」(一昨年の秋の記念)「忘れがたき人々」(一は函館より釧路まで、二は智恵子を思ふ歌)「手套を脱ぐとき(これはそれ以外)」。
啄木像(後姿)
岩山には学生がよく来ますが、この日も小学生が来ていました。啄木が通った当時の盛岡中学校からは4kmほどありますが、当時の中学生達はこの辺まではよく歩いて来たのでしょうね。ところで、写真の啄木は岩手山、姫神山のどちらを見ているでしょう?写真正面の岩手山の右方向45度くらいに姫神山は見えます。
岩山から見た岩手山
姫神山
岩手山(いわてさん)は、東北、奥羽山脈北部の山で標高2,038m。別名巖鷲山(がんじゅさん)といわれております。このシリーズ(2)で示した岩手山の雪解けの形が飛来する鷲の形に見えるため巖鷲山(いわわしやま)と呼ばれたものが「岩手」の音読みの「がんしゅ」と似ていることから転訛したものだとも言われている。
姫神山(ひめかみさん)はゆるやかな三角形にせり上がっており標高は1,123mです。
(11)盛岡天満宮の啄木歌碑
盛岡駅方面から上の橋(かみのはし)を渡り800メートルほど進むと盛岡天満宮です。天満宮の森は、啄木お気に入りの散策と読書の場所だったといわれており、天満宮の境内にある一対の狛犬の台座には啄木の歌が詠まれております。この歌碑は昭和8年7月23日に建てられた。さらに、平成4年7月には狐象が建てられ、その台座に啄木の歌が刻まれた。
"この天満宮は、小説『葬列』の舞台でもあるといわれております。この天満宮境内は啄木がしばしば散策杖をひたところで、小説「葬列」にその委曲をつくして居り啄木が可愛がった狛犬は今も昔と変わらぬ愛嬌のある顔を風雨にさらしている。この狛犬は高畑源次郎という人が明治38年に奉納したものです。"(案内板)
盛岡天満宮
天満宮の一対の狛犬
天満宮の社には階段を登って行きますが、階段が大変の方は車で裏側から回ると参拝者用の駐車場があり、そこからはすぐです。
吽形の狛犬
阿形の狛犬
社に向かって左側が吽の狛犬、右側が阿形の狛犬。それぞれの狛犬の台座には啄木の歌が詠まれている。
吽形の狛犬
松の風夜晝ひびきぬ
人訪はぬ山の祠の
石馬の耳に
阿形狛犬
夏木立中の社の石馬も
汗する日なり
君をゆめみむ
「松の風・・・」は啄木の歌稿ノート(明治41年10月23日)にある歌で岩手日報(明治41年11月11日)と文芸雑誌「明星」の終刊号(明治41年11月号)に発表され、一握の砂に掲載されております。「夏木立中の社の石馬・・・」は文芸雑誌小天地(明治38年9月号)に発表された歌です。盛岡天満宮の境内には、昭和8年に建てられたこの二つの狛犬の歌碑がありますが、さらに、平成4年7月に天満宮社殿横の稲荷社前に狐の石像一対が寄進され、その台座に啄木短歌が活字体で刻まれました。稲荷社に向かって右の像の台座に短歌、左の像の台座に建立の由来が刻まれています。
一対の孤像
孤像の台座の歌
苑古き
木の間に立てる石馬の
背をわが肩の月の影かな
この歌は啄木が岩手日報(明治38年7月18日)に書いた随筆「閑天地」にあります。天満宮にはこれらの歌の他に、社に向かって左手の小道を20メートルほど下ると、中腹に小さな広場(望郷の丘)があり、そこにも啄木「啄木望郷の碑」が建っています。自然石に刻まれた文字は啄木の直筆から集字しており、狛犬の歌碑と同じ昭和8年7月に建てられました。
望郷の丘の歌碑
望郷の丘から見た岩手山(2010.8.30夕)
病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあおぞらの煙かなしも
石川啄木が眩しいばかりの青春時代を送った盛岡回顧の一連の短歌「一握の砂」の「煙」の没頭に据えた「病のごと・・・」の歌碑が、盛岡啄木会の手でこのゆかりの深い天満宮の丘に建てられたのは昭和8年7月である。これは盛岡で最初の啄木歌碑である。また風韻ある自然石に刻まれた碑面の文字は啄木の直筆から集字拡大したものである(案内板)。
なお、この歌は雑誌「曠野」(明治43年11月号)に発表され、一握の砂「煙一」に掲載されている。
望郷の丘には境内から社に向かって左側の通路から行けますが、天満宮の階段の左側にある通路を進んでも行けます。