(10)厨川の啄木歌碑

国道4号を青森方面に進んで行くと、道路沿いに赤平グリーンプロットがあり、そこには啄木の歌碑があります。NHK前交差点から3.5km、厨川駅の手前400mのところです。現在は厨川の住所表記になりますが、当時は茨島と言われ、盛岡から渋民へむかう途中にあった地名でした。現在も茨島地区といわれるところがあり、この歌碑から国道を北上していくと茨島跨線橋があります。「われと行きし少女」と歌われたのは、啄木の妻節子の友達、板垣玉代さんで、その板垣家の人々が、この地に歌碑を建て、昭和61年12月に市に寄付しております。




赤平グリーンプロットの啄木の歌碑(2010.5.27)


  茨島の松の並木の街道を
  われと行きし少女
  才をたのみき



「才をたのみき」とは、「その才能を頼りにしたことだったなあ」とか「少女は自分の才能を頼りにしている、自信を持っているなあ」などと解釈されますが、いずれにしても優秀な少女だったのでしょうね。

茨島跨線橋は啄木歌碑から国道4号線を北上して行くと1.5km程のところにあり、国道4号、国道281号、国道282号の跨線橋で、東北新幹線とIGRいわて銀河鉄道を跨いでいる。





 茨島跨線橋から見た岩手山(2010.10.29)

岩手山の初冠雪は10月27日でした。昨年より1週間ほどおそいようです。


芸術の秋、第40回「私たちの作品展」が盛岡市と共催で開かれ、私も陶芸部門に花器を出展しました。



私たちの作品展(2010.10.27〜31)


出展した作品


(9)大通りの啄木歌碑
盛岡駅から大通りを進むと岩手公園がありますが、その手前に丸藤菓子店があり、ここには昭和52年9月に岩手大学の本田先生が彫刻した啄木像があります。啄木の歌はその台座に詠まれています。ここは啄木が通った盛岡中学、中学受験に備えて通った学術講習会の近くなので、この辺にはよく来たのでしょうね。




石川啄木の銅像と歌碑

丸藤菓子店からさらに大通りを進み映画館通りの信号を左折後すぐに右折すると、冷麺で人気の食道園がある。
また、大通りをさらに進んで行くと左側に桜山神社参道があり、そこにはじゃじゃ麺で人気の白龍(パイロン)があります。


冷麺で人気の食道園


じゃじゃ麺で人気の白龍

ところで最近ツバメやスズメを見ることがありませんが、皆さんはいかがですか。8月にツバメを見ることが出来ました。


燕君(8月14日)

啄木もスズメについて次のように詠っております。

ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを
三年聴かざり


(8)岩手公園(盛岡城跡公園)の歌碑

盛岡駅から開運橋を渡り大通りを進んで行くか、不来方橋を渡り菜園通りを進んで行くと岩手公園(盛岡城跡公園)があります。歩いて10分程です。歌碑は盛岡城(別名不来方城)の二の丸跡に、昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して建てられました。






不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心



少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の
夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学校は内丸通りに在り、岩手公園とは200メートルと離れていなかった。
この歌碑は、昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して盛岡啄木会の協力で建てられたものである。かつては、ここから岩手山を遠望することができ、盛岡市内も見おろせる風光の地であった。歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書である。(案内板)
盛岡城はかっては不来城とも呼ばれ、お城は取り壊されておりますが、残された石垣によって当時の面影が残されております。その城跡は現在岩手公園として盛岡の観光名所の一つとして、また市民の憩いの場として親しまれております。平成18年の開園100周年にあたり、愛称を盛岡城跡公園と名づけました。


 岩手公園菜園側入り口


 三の丸・二の丸の石垣


二の丸と本丸を結ぶ橋(2010.10.6)


烏帽子岩


公園の桜(2010.5.1)



  朝のラジオ体操


烏帽子岩(兜岩)は盛岡城築城時(1597 年)頃この地を掘り下げたときに、大きさ二丈(6.66m)ばかり突出した大石が出てきました。 この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され、災害や疫病があった時など、この岩の前で平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。(案内板)
岩手公園は憩いの場であり、春の桜観、早朝のウオーキング、中津川側の宮沢賢治の文語詩『岩手公園』の碑文の前での朝のラジオ体操などが行われています。



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