(7)盛岡第一高等学校の歌碑

啄木が入学した盛岡中学校は内丸から上田に移転され現在盛岡第一高等学校になっています。啄木の歌碑は、啄木生誕120周年の記念の年にあたる平成18年に建立されました。
歌碑は正門から入るとすぐ右側にあります。





盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ



「・・・最一度我を倚らしめ」とは意味深い表現ですよね。文学は工学と違って詠む人によっていろいろ解釈できるので楽しくなります。

盛岡一高は伝統ある高校で今年130周年にあたるようです。近くには県立中央病院があり、北山トンネルが昨年10月に開通しました。このトンネルを過ぎると県営野球場はすぐです。そのまま進んで行くと岩泉方面です。


北山トンネル(2009.10.26開通)

盛岡秋祭が9月14日〜16日に行われました。16日は流鏑馬があり、雨の中でしたが多くの人が来ておりました。


盛岡秋祭り最終日の流鏑馬(2010.9.16)


(6)岩手医科大学附属循環器医療センター前の歌碑

岩手銀行に隣接して岩手医科大学循環器医療センターが建っておりますが、ここは啄木が通学していた当時の盛岡中学の図書庫跡で、「図書庫」は土蔵造りでした。大正6年盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)は上田に移転しましたが「図書庫」は、この場所に保存されておりました。昭和44年宮古市がこの図書庫を譲り受け、宮古市山口に移築し「寄生木記念館」として開館しております




循環器医療センター玄関前の歌碑

学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名もしらず
             
啄木


「寄生木記念館」は作家・徳富蘆花の小説『寄生木』の主人公のモデルでもある小笠原善平の遺品や写真等が展示されている施設です。小笠原善平は岩手県宮古市山口地区の出身であることから、菩提寺である宮古の慈眼寺の敷地内に旧盛岡中学の旧図書庫を移設し、開館されました。なお、寄生木記念館は平成22年4月に閉館し、小笠原善平の資料は慈眼寺近くの山口公民館に陳列されております。また、現在使用されていない図書庫については、「当時の様子を伝える重要な建物」として、盛岡市では移設について検討しているようです。


寄生木記念館

徳富健次郎(蘆花)著「寄生木」は明治42年12月に刊行されました。この「寄生木」の主人公篠原良平は、宮古市山口出身の小笠原善平です。波乱に満ちた数奇な運命を書き留めて「寄生木」と題し、良平は当時最も人気の高かった小説家徳富健次郎(蘆花)に託して小説家することを頼んだのでした。良平の死後、健次郎は小説「寄生木」の執筆を決意し、序文に「正当に云えば、寄生木(やどりぎ)の著者は自分では無い。真の著者は陸中の人で篠原良平と云ふ。」と明記して出版したのです。恩人である大木将軍(実名:乃木希典)や徳富健次郎(蘆花)との交流、愛する夏子(実名:小笠原勝子)への思い、銃弾が降り注いだ日露戦争など、善平の残した数多くの遺品が小説「寄生木」の中で描写されています。(山口公民館)


左手前が岩手銀行、その奥が循環器医療センター、道路を挟んで裁判所


盛岡秋祭りが始まりました(2010.9.14〜9.16)



(5)岩手銀行本店の歌碑
啄木は明治31年岩手県盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学、明治35年の退学までの間学んでおります。当時の盛岡中学校は、現在の岩手銀行本店の場所にあり、銀行と裁判所の間の道路に沿った銀行の敷地内に「盛岡中学濫觴の地」と銘のある歌碑があります。この歌碑は昭和58年11月に建てられております。


岩手銀行本店敷地の歌碑


盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ
              石川啄木
         岩手県立盛岡中学校濫靜の地


(歌は金田一京助博士の自筆と活字体で併記されております。金田一京助書の啄木の歌碑はいくつかありますが、ここの歌の自筆はなかなか読めないので活字体を併記したのでしょう)


左から岩手銀行本店、道路を挟んで裁判所、岩手県庁



中の橋通りの岩手銀行(旧盛岡銀行)本店本館(国指定有形文化財)


盛岡地方裁判所の石割桜(2009.04.15撮影)


暑い中の雨あがり、今日は真夏日も途切れ幾分涼しいかな(2010.09.03)





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