(4)江南義塾盛岡高等学校内の歌碑
明治30年盛岡高等小学校3年の啄木は、江南義塾盛岡高等学校の前進である学術講習会に通い、中学受験に備えております。学術講習会は尋常中学校および師範学校入学予備学科を講習しておりました。当時から予備校のような学校があったわけです。江南義塾高校が現在の前九年に移転されたのは昭和55年で、啄木が通っていたころの学術講習会は日影門外小路にあり、現在の中央郵便局の傍でした。啄木が学術講習会に在籍していたことは友人の伊東圭一郎の書により広く知られておりましたが、同校に在籍した書類が見つかりませんでした。ところが、昭和55年の前九年への移転の際、旧校舎解体時に校長室の屋根裏から当時の「束修領収書」(入学金領収書)が見つかり、その中に石川一(啄木の戸籍名)、伊東圭一郎の名があり、啄木の在籍が裏付けられました。高校では昭和58年6月に創立90周年・石川啄木歌碑除幕式を行っております
啄木の歌碑
己が名を ほのかに呼びて
涙せし
十四の春に かへる術なし
啄木
江南義塾盛岡高等学校
江南義塾高校は岩手大学工学部から館坂橋を渡り青山町方面に歩いて10分ほどです。
江南義塾高校の住所表示は前九年であり、周りの住所表示には安倍館、厨川、天昌寺、館坂橋を渡ると館向があります。この辺は前九年の役に際して,安倍貞任が最後に立てこもった厨川柵の場所で、その範囲は現在の通称「館坂」、天昌寺町から北天昌寺町、前九年町まで広域にわたると見られております。これらの場所は北上川と雫石川に挟まれ、二つの川は下流3kmほどで合流するため、川が自然要塞になっております。
北上川(手前) と雫石川の合流地点
(3)下橋中学校校庭の歌碑
啄木は明治28年に盛岡高等小学校(現在の下橋中学校)に入学、31年に卒業しています。当時、盛岡の学校に郡部から入るの
はいろいろな面で大変だったようです
啄木の歌碑は校門から入るとすぐ左手にあり、啄木の2年上級で少年時代より晩年まで親交が厚く、堅い友情で結ばれていた金
田一京助の揮亳である。歌碑は昭和52年秋、中学創立90周年を記念し、旧職員有志により建立されました。
啄木の歌碑(校門を入るとすぐ左側にあります)
その昔
小学校の征屋根に我が投げし鞠
いかにかなりけん
京助書
下の橋(下橋中学校は橋の下流100mほどです)
下橋(しものはし)中学校校門前から見た下の橋