(16)盛岡市役所裏の歌碑
盛岡市役所の裏にまわると中津川が流れている。市役所の裏の駐車場から階段で川に降りると「詩歌の散歩道」があり、この道に啄木の歌碑がある。この歌碑は平成5年11月に建てられたもので、中の橋と与の字橋の間にある。小さな歌碑なので雑草などに隠れ、見落とす人が多い。川水が増えると水の中に沈むのかも知れない。
啄木歌碑
中津川や
月に河鹿の啼く夜なり
涼風追ひぬ夢見る人と
この歌は、雑誌「明星」(明治38年7月号)に石川啄木・せつ子の名で発表されている。「夢見る人」とは、啄木は妻節子を思い、節子は啄木のことを思っていたのでしょうね。
盛岡市役所裏の駐車場
歌碑
この歌碑は小さいので見落としがちですが、上の写真で女性の方が歩いている付近です。
冬になると白鳥が飛来します
(15)富士見橋の歌碑
啄木は明治35年10月盛岡中学を退学し文学で身を立てようと盛岡を離れ上京した。その後の盛岡での生活は、明治38年に節子と結婚し、両親、妹と盛岡市帷子小路に新居を構えている。この新婚の家は当時のままに現存し、「啄木新婚の家」として盛岡の観光名所の一つになっている。啄木はこの新婚の家で3週間過ごした後加賀野に転居した。この加賀野の家は中津川に架かる現在の富士見橋のすぐ傍にあり、当時その家は「小天地」発行の場ともなっていた。富士見橋は上の橋(かみのはし)を盛岡駅側から渡り中津川を上流に5分程歩くと到達します。富士見橋は昭和56年3月に建てられ、橋柱に啄木の歌が銅板ではめこまれており、橋の欄干は啄木自らがデザインした『小天地』の表紙のケシの花をモチーフにしている。冬になると橋の付近には白鳥が飛来する。現在啄木が過ごした当時の家は無く、その場所には啄木荘と名の付くマンションが建っている。
岩手山を後方に富士見橋の啄木の歌
岩手山秋はふもとの
三方の
野に満つる虫を何と聴くらむ
この歌は、啄木歌ノート「暇ナ時」(明治41年8月29日)にある歌で、菅原芳子宛書簡(明治41年9月9日)、雑誌「春潮」(明治41年10月号)で発表され、一握の砂「煙二」に掲載。
岩手山を見ていると「岩手さ〜ん こんにちは」と呼びかけたくなります。美しく、生きている感じです。啄木は何所に立って岩手山を眺めたのでしょうね。
明治38年6月25日、啄木が新婚3週目に転居したのがこの地であり、また、文芸雑誌「小天地」を発行したのもここであった。ここに住んだのは、翌年3月に代用教員となって、渋民に帰るまでのわずか9か月でありますが、啄木の生涯において記念すべき時代であった。この地の感想は、随想「閑天地我が四畳半」並びに長詩「江畔雑誌」のはしがきに詳しくのべられてある。(啄木荘壁の案内板)
上の橋(かみのはし)
富士見橋の欄干の鳩と白鳥(2011.2.2)
啄木新婚の家
詩人石川啄木は、明治38年(1905年)5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版しそれをみやげに帰郷の途についたが、金策の必要から仙台に下車して土井晩翠をその居に訪ねた。仙台医学専門学校には郷友、猪狩見竜、小林茂雄らが在学中で、彼らと遊んで滞在すること10日におよんだ。その間、盛岡帷子小路八番地の借家には月末の30日に結婚式を挙げるべく婚約者の堀合節子がその帰宅をまちわびていた。しかし啄木は遂に姿を見せなかった。そこでその夜級友上野宏一(画家)の媒酌で珍妙な「花婿のいない結婚式」がおこなわれた。それがこの家である。仙台をたった啄木は盛岡駅を素通りして渋民に行き、ようやくこの顔を見せたのは6月4日だった。ここではじめて新婚の夫婦と両親、妹光子の5人が揃って家庭をもったのである。ときに啄木は20歳。この家で稿を起した随筆「閑天地」は連日、岩手日報の紙上をにぎわし、「我が四畳半」はよく新婚の夢あたたかな情景を描いている。ほかに「妹よ」、「明滅」、「この心」の作がある。啄木一家がここに在ること3週間、6月25日には中津川のほとり加賀野磧町四番戸に転居した。現在盛岡市内の啄木遺跡といえるのは「啄木新婚の家」だけである。
(案内板)
啄木新婚の家
この家には3家族が住んでおり、下図の左側の見学スペースに2家族、右側の管理スペースに1家族が住んでいた。啄木一家が住んでいたのは赤く塗りつぶした玄関、4畳半、8畳で、四畳半が啄木と節子の部屋、8畳が両親と妹光子の部屋でした。
新婚の家に行くには、盛岡駅前を北上川が流れているので橋を渡って進むことになります。駅前には3つの橋があり、まっすぐ進むと開運橋、左側に沿って進むと旭橋、右側に沿って進むと不来方橋があります。新婚の家に行くには旭橋を渡って中央通りに出、信号を右折し100mほど進んだ左側にあります。新婚の家の前には道路標識やバス停があります。車で行くと新婚の家を示す標識があり、盛岡駅前から市内循環バス「でんでんむし号」右回りに乗ると二つ目に新婚の家前のバス停があります。バスは1回100円、1日券300円、新婚の家の入館料は無料です。
(14)啄木であい道の歌碑
これまで啄木が盛岡高等小学校、盛岡中学を過ごした盛岡の思いでの場所に建つ歌碑を紹介してきましたが、これらの場所には啄木が中学生時代に詠んだ歌はありませんでした。平成11年に設置された「啄木であい道」には啄木が盛岡中学時代に詠んだ歌があります。ここは開運橋と旭橋の間にあり、盛岡駅前から開運橋か旭橋を目指して歩き、橋の手前の北上川沿いの両橋の間です。市営地下自転車駐車場の緑地公園内です。
啄木であい道
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
石川啄木
この歌は東京毎日新聞(明治43年5月8日)に発表し、一握の砂「忘れがたき人人(二)」に掲載されています。「忘れがたき人人(二)」にある22首の歌はすべて、たった一人の女性、智恵子を詠んだものです。
「啄木であい道」には、この大きな歌碑を中心に左右に多くの歌碑が建っています。
花ひとつ
さけて流れてまたあひて
白くなりたる
夕ぐれの夢
石川翠江
夕ぐれの夢
啄木盛岡中学時代の雅号 翠江
明治34年7月
回覧雑誌秋草より
翠江(すいこう)は啄木の盛岡中学時代の雅号で、盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表しました。この歌は、その中の一つで、これらの歌は現存する啄木の作品中最も古い歌です。
血に染めし
歌をわが世の
なごりにて
さすらひここに
野にさけぶ秋
石川白蘋
この歌は、啄木が盛岡中学を退学する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10
月号)に掲載され、自信を持って?この後、文学で身を立てようと上京しました。
白蘋(はくひん)も啄木の盛岡中学時代の雅号で、翠江は明治34年8月頃から12月頃まで、それ以降明治36年9月頃までは白蘋を使用している。なお、「白蘋」の雅号は啄木が育った宝徳寺の裏庭に白蘋の池があり、これに由来しており、「啄木」の号はお寺の境内の樹林をたたく啄木鳥から生まれたものです。(宝徳寺案内板)
花びらや
地にゆくまでの瞬きに
閉ぢずもがもか吾霊の窓
啄木明治36年9月17日
野村董舟(胡堂)宛の手紙の中の一説
吾霊の窓
この歌は啄木が胡堂に宛てた手紙の中にあり、長文の手紙の最後にワグネルの像掲げたる
窓に蟋蟀の歌きゝつゝ
白蘋拝
「花びらや、地にゆくまでの瞬きに、閉ぢずもがもか吾霊の窓。」
とあり、白蘋の雅号を用いている[1]。
啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用していましたが、これは明治34年12月末から35年の正月頃までの短い期間のようです。麦羊子の署名での歌は、野村胡堂宛ての手紙(明治34年12月31日)、金田一京助宛の手紙(明治35年1月1日)の中で、次のように詠んでいる。
「争はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐」
石川麦羊子
「啄木であい道」 には、その他、次の歌碑が建っている。
啄木
汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも
今日もまた胸に痛みあり/死ぬならば/ふるさとに行きて死なむと思ふ
啄木・節子
中津川や/月に河鹿の/啼く夜なり/涼風追ひぬ/夢見る人と
節子(啄木の妻)
眞洞出る/流れに添ひし/白樺の/木立をつつむ/夏大日かな
初秋やまさぬ一夜を髪を梳/かなしとききぬ歌やこほろぎ
夏潮や二人のゐなる舟なれば/五反帆なれど日の色そめて
ひぐるまは焔吐くなる我がうたに/ふと咲き出でし黄金花かな
我が娘今日も一日外科室に/遊ぶと云ふが悲しき一つ
石川一禎(啄木の父)
朝日影/流石に雲井に/輝きて/岩手の山の/峰のしら雪
葛原対月(啄木の伯父)
花にやう/ふれし袂に/香をとめし/くれゆく春の/かたみとやせん
石川京子(啄木の娘)
美しき星月夜なり今はなき/母のことなど思い出たり
絵本読む事にあきて児等二人/土いじりすると庭にありゆく
光子(啄木の妹)
なだらかに/陽は暮ぬ/寂冥の闇に/己れを見出しかな
[1] このシリーズ「啄木の歌碑めぐり」においては、金田一京助ら『石川啄木全集』筑摩書房を参考にしています。